スイス核シェルターの歴史 第3回~
冷戦期から冷戦後へ

世界で最も核シェルターが普及し、核シェルターの仕様がしっかりと定められている国がスイスです。スイスは世界で最も早い時期、1963年に核シェルターを建設するための法令を定め、1966年には技術指針「TWP1966」が定められました。

TWP1966はスイスの核シェルター建設の基本的な考え方となります。 その後、TWP1966で抜けていた民間人保護局の事務所(コマンドポスト)や医療機関用のシェルターの技術指針としてTWO1977が出されます。

日本でも今年度内にシェルターの基準(ガイドライン)が策定される見込みですが、スイスのシェルター建設の歴史、及び現在スイスで巻き起こっている議論を知っておくことも重要でしょう。

第3回は80年代から冷戦後にわたるスイスの核シェルターの事情です。

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80年代の大改訂前の技術指針「TWO1977」

前回はスイス初の体系的なシェルターの技術指針「TWP1966」の成立過程を見てきました。1963年のスイス連邦工科大学でのシンポジウムに始まり、数年かけてガイドラインが練り上げられ、TWP1966の成立につながります。

TWP1966はスイスの核シェルター建設の基本的な考え方となります。その後、TWP1966で抜けていた民間人保護局の事務所(コマンドポスト)や医療機関用のシェルターの技術指針としてTWO1977が出されます。

当協会のショールームにご視察に来られた方は目にしたことがあると思いますが、下記の図面はこのTWO1977で例示されているスイスの医療センターのシェルターの一例の図面に、スイスandair社のテキストで換気の流れを記入したものです。

スイスの医療センターのシェルターの一例

医療センターのシェルターの例。有事には野戦病院として機能することになる。なお、スイスでは少し大きなシェルターには病院(診療)機能や出産のための機能が備わっている。

このTWO1977はコマンドポストや医療センターという、有事に活発に機能しなくてはならないシェルターに関する技術指示になり、出入りも多くなったり、設備も大量に必要になるので、一般的なシェルター(学校の地下やショッピングモールの地下に設けられたもの)に比べると造りが異なります。

冷戦末期の80年代。技術指針は一変する

第1回で記しましたが、70年代に出された、より精緻な核攻撃研究を受けて、80年代にスイスの指針は大きく変わります。

1984年にTWP1984が出されると、TWP1966は失効します。第1回で書きましたように、TWP1966とTWP1984を比べますと、基本となる考え方は同一ですが、最新の研究を受けて、被害影響をより防ぐことができる技術指示になっています。日本で言えば、旧耐震と新耐震の違いに近い感じになります。また、1982年にTWS1982が出され、TWO1977の内容が補完されます。

なお、TWS1982は病院・老人ホーム・養護施設のシェルターに関する技術指針ですが、他にも地下駐車場と銘打った技術指針なども出されています。さて、いまから見れば80年代は冷戦の末期にあたり、東西の対立が緩みつつあるように感じる方もいるかもしれませんが、当時はいつ世界大戦が勃発するのかわからないような一触即発の世界情勢でした。

特に日本では核の冬が喧伝されたり、「北斗の拳」がベストセラーになり、西ドイツから起こった反核運動が世界中を席捲するなど、核戦争をめぐる言説が流行しました。この頃に核戦争=世界最終戦争というイメージがつくられました。実は欧米では必ずしもそのようなイメージではありませんが。

なお、現在では、核の冬は湾岸戦争後に科学的な観点から疑問が多く提出され欧米では現在では否定されつつあり、また西ドイツから起こった反核運動はソ連の策動であったことが明らかになっています。

話を戻しますと、80年代はいつ核兵器が使われるかわからない緊張感があったので、欧州をはじめとする世界では、核シェルターという備えを整えていました。シンガポールの地下鉄が初めてシェルター化したのも80年代です。スイスでも一触即発な世界情勢を受けて、TWS1982とTWP1984という技術指針を整備しました。

冷戦終結後「核シェルター不要論」が起こる。しかし、昨年不要論は吹き飛んだ!

1989年に東欧諸国で共産主義体制が崩壊し、ベルリンの壁が壊され、1990年にドイツが統一され、翌年にソ連が崩壊すると、冷戦が終結しました。欧州では冷戦後のユーゴスラビア紛争が終結すると、武力紛争の危機が去ったような風潮が主流となりました。こうした世界情勢を受けて、核シェルター業界は縮小します。

核シェルター建設の体系化に成功し、中立国であったスイスは、冷戦中はその立場を活かして、世界最大級の核シェルターの輸出国でした。現在も世界的な核シェルター輸出大国です。防爆扉や換気装置など、核シェルターソリューションの輸出だけでなく、コンサルティングも含めて、世界中に核シェルターのノウハウを輸出しています。

たとえばシンガポールの地下鉄はシェルター化がなされていますが、その初期にはスイスの企業がコンサルや技術協力で携わっていました。

シンガポールの地下鉄

シンガポールの地下鉄は80年代からシェルター化が進む。スイスのandair社が技術協力を行った。

冷戦中は数多く存在していた核シェルター関連企業の再編が90年代以降進行します。たとえば、当協会とつきあいの深いスイスandair社は、ドイツの核シェルターソリューションメーカーのLUWA社を冷戦後に買収しています。工場を縮小したり、人員整理する核シェルター関連企業も出てきました。

スイスでは、1994年にTWP1984をベースに、SIA(スイス建築技術者協会)の仕様との整合性を図ったTWK1994が出され、1997年に多少の改訂がなされましたが、その後現在に至るまでは大きな改訂はありませんでした。

むしろスイスでは冷戦終結後、シェルター不要論が巻き起こります。冷戦が終わり、武力紛争の危機が遠ざかる中で、コストのかかるシェルターは必要ないという「シェルター不要論」が主流となってきました。

こうした声を受けて、2011年には1967年から継続されてきたシェルターの義務化がなくなりました。シェルターは冷戦期の遺物として取り扱われるようになってしまったのです。しかし、このシェルター不要論は昨年吹き飛びました。ロシアによるウクライナ侵攻によって。次回は現在のスイスで巻き起こっているシェルターに関する議論を紹介します。

日本核シェルター協会 事務局

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